出○してみよう 弐
   岡崎智代の闘い












その時、俺は走っていた。
リノリウムの廊下を、受付嬢が言った道順を懸命に思い出しながら。
義父は、いつかはこうなるんじゃないかって思っていたよ、とその後教えてくれた。

電話をくれたのは親父だった。
その日は智代も休暇を取っていて、親父が昼過ぎに遊びに来ていたらしい。
今思い返してみれば、すごく運がよかった。
廊下の突き当たりで、親父と義父が医者と話していた。

「あ、朋也君」
「親父、お義父さん!」
「大丈夫かね、朋也君?」
「俺は……俺なんかはどうでもいいんですっ!あいつは、智代は……」

智代が倒れた。
急なことだったらしい。
昼食を一緒に食べ、食器を洗っている最中、急に口を押さえ、
智代はその場で崩れるように倒れ込んでしまったらしい。
これもまた後日談だが、親父もまた、いつこうなってもおかしくなった、と思っていたらしい。

「あなたが御主人ですね?」

俺は黙って頷いた。

「これから大変になります。ただ覚悟は決めていてください」

知らなかった。妻がこんな重い病気だったとは。

「奥さんの傍にいて、しっかり支えてあげて下さいね」

知らなかった。智代がそれほどまでに弱っていたとは。

「何かあったら即連絡ください。今は落ち着いていますが……」

知らなかった。あいつの病状がそこまで不安定なものだったとは。

不意に、あいつの笑顔が浮かんだ。
学校の帰りで、「お前といるのが楽しい」と笑う智代。
付き合おうと言った時にはにかんで「うん」と頷いた時の笑顔。
別れた後でまた付き合い始めて、あの桜並木を見上げた時の笑顔。
結婚しようと言った時の、涙をためながらも幸せそうに見つめてくれた笑顔。
大学を卒業して、今の会社で働き始めた時の、誇らしげな笑顔。
昨日の夜、眠りに落ちた時の安心した笑顔。

畜生、何で今になってそんなのが脳裏をかすめるんだよ。

「先生……一つ聞かせて下さい」
「……はい」
「あと、どれくらいですか」

あとどれくらい、一緒にいられますか、とは怖くて聞けなかった。

「そうですね、はっきりとはわかりませんが……」

十年、いや、五年でもいい。まだ俺はあいつと一緒にいたいんだ。
しかし現実ははるかに酷かった。

「遅くて八ヶ月、早ければ六ヶ月が勝負ですな」

一年もなかった。

「先生……俺、何でもします。だから、あいつを救ってやって下さい」
「はぁ……」
「俺……あいつを幸せにしてきたかなんて本当に解らないけど、
まだあいつを愛してます。あいつと夫婦やっていたいんです」

お願いします、と頭を下げた。

「岡崎さん、何か勘違いしていませんか?」
「え?」

俺は医者を見上げた。困惑気味な顔だった。

「私はあなたの奥さんの寿命とかそういう話をしているわけじゃないんですよ?」
「は?」
「朋也君、ちょっとあそこの表示を見てごらん」

親父がこめかみを押さえながら廊下の標識を指さす。義父は苦笑していた。

「産婦……人科……?」

おめでとうございます、と医者が笑いながら握手を求めてきた。
これまた後日談だが、芳野さん曰く「愛だな。」





「まったく馬鹿だな、朋也は」

最初に言う言葉がそれですかまいはにぃ。つーか外から聞こえてたのか……

「昔からそそっかしいとは思っていたけど、まさかここまでとは……
はあ、朋也君は誰に似てしまったんだろうね」

いやあんたの息子ですから。

「しかしあれだけのことを言ってのけるとは、智代もいい夫を持ったもんだな」

お願いしますあれ忘れてくださいお義父さん。

「まったく、仕方のない奴だ」

智代が不意に笑った。そう、この笑顔だった。

「どうした?呆けた顔が面白いぞ朋也?」
「いや、お前の笑顔に見とれてた」

ボン、と智代の顔が爆発した。と同時に親父が苦笑し、義父がにやにや笑った。

「そそそそそそんなことをおおおおおやの前で言う馬鹿がどこにいる!」
「お前の目の前」
「いやだからそれはだな嬉しくないと言っているわけじゃないんだぞ?
でも何も親の前で言わなくても」
「いいぞ朋也君、もっと言ってくれたまえ」
「お、お義父さん」
「父さん!そう朋也をけしかけないでくれ」
「はっはっは、ではそろそろ退散するとしましょうか、岡崎さん」
「ああ、そうですね。ああ、これで息子がアレじゃないとわかって安心しました」
「いやぁ、私もね、娘が実はアレだったんじゃないかと気が気でなくて……」

何だかとっても失礼なことを二人して言っていた気がする。
ドアが閉まると、部屋には俺と智代しかいなかった。

「まったく、朋也も朋也だが、父さんも困ったもんだな」

ふくれっ面をする智代。何だか今日はこいつの何もかもが可愛かった。
俺と義父にはあまり接点はなかった。はっきり言って、俺には坂上家の敷居は高かった。
智代の弟である鷹文によると、俺の第一印象は
「美麗且つ聡明なうちの大事な智代についた不良な害虫」だったそうで、
顔は知らないがどうせ碌でもないやつに違いない、という認識だったらしい。
智代も鷹文も説得しようとしたが、あまり反応は良くなかったらしい。
そんなある晩、俺は残業で遅くなり、夕飯は屋台のラーメンということになった。
この頃智代はまだ学生で、俺のところに泊ることは許されていなかったから、
残業とかがあると家で待っててくれとは言えなかった。俺は何気なく駅前の屋台の暖簾をくぐると、
そこには恰幅のいい男が悪酔いしていた。何でも可愛い娘が悪い男にたぶらかされていたらしい。
その男のせいでやっと絆を取り戻しかけた娘との仲がうまくいっていないそうだった。
俺がトンコツラーメンを食べ終わる頃には、その男はすでに出来上がっていて、
結局その男の家まで送っていかなければならなくなった。
その家は結構立派な一戸建てで、恐らくその自慢の娘が手入れしているんだろう、
庭もきれいさっぱりとしていた。暗かったので表札は見えなかった。
俺が呼び鈴を鳴らすと、玄関からよく見知った顔が現れた。

「朋也?何をしているんだ?」
「え?いや、この人を送りに、ってお前こそ何やってるんだ?」
「ここは私の家だぞ、って父さん?!」

参った。どうやら知らぬうちに智代の父親から俺の悪口を延々と直接聞かされていたらしい。

そんなこともあって、義父と俺は仲良くなり、
親父と和解してからはさっきみたいに二人で子どもをいじめて遊ぶようになった。

「なあ智代」
「うん?」
「さっきさ、あの勘違いした時、何が一番怖かったと思う?」
「何だ、急に」
「うん。俺はもう智代の笑顔が見れないんじゃないかってのが一番怖かった」
「……そうか」
「ああ。だからさ」
「じゃあ、私はずっと笑顔でいよう」

智代が俺を遮った。

「ずっと笑っていてやる。お前が私の笑顔を見飽きても、ずっとだ」
「智代……」
「朋也……」

顔が近付く。互いの瞳に見入る。智代のかすかな息吹が俺の頬にあたって

「はい失礼しますよ智代さん」

柊椋が病室に入ってきた。どうやら食事のトレイらしい。

「ちゃんと食べて下さいね〜、もう一人の体じゃないんですから」
「あ、ああ」

急いで体を離した二人を尻目に、椋は淡々と智代の目の前に病院食の皿を置いた。

「岡崎さん、何なら食べるのを手伝ってあげたらどうですか?」
「な」
「身重の妻をかいがいしく介抱する夫……いいですよね。いつか勝平君も……キャッ」

笑いながら椋が退出する。ほう、とため息を漏らした瞬間、ドアがまた開き、椋が顔をのぞかせた。

「あ、言い忘れました」
「何を?」
「フヒヒwwwwサーセンでしたwww」

バタン。
お前と杏やっぱ姉妹な。





二ヶ月後、智代の腹が目立ち始めた。

「時々私の腹を蹴るんだ。失礼な奴だな」
「もしかして智代の天賦の才を譲り受けるのかな?」
「私としてはそんな物騒な物は譲り受けてほしくないのだが……あ、また蹴った」
「どれどれ」

俺は智代の腹に耳を当ててみる。が、何も聞こえない。

「おーい、父さんでしゅよ〜」

返事が返ってこない。少し凹んだ。

「何を期待していたんだ何を」

あきれ顔で見る智代の頬に軽く接吻した。
幸せの、味がした。



「なあ」
「うん?」
「名前、何にしようか」
「……一つわがままがあるんだが」
「お?何だ何だ」

智代がわがままなんて珍しいな。

「最初の字は、とも、で始めていいだろうか」
「というと?」
「家族そろって『とも』だぞ?どうだ、家族らしいだろ?」

そんなものかねぇ。とは馬鹿にできなかった。何だか、温かい気分に包まれた気がした。

「ともトリオ、か」
「トリオ?何だ、聞いていないのか?」

智代が驚いて俺を見た。

「ああ、何の話だ?」
「トリオじゃないんだ。私たちは、カルテットになる」

カルテット?それってつまり……

「ああ、双子だ」
「双子……か。でも大変じゃないか?体に負担とかは……」
「大丈夫だ。朋也は私の体の強さを知っているだろう?
お前と家族のためなら、これぐらいどうということはない。それよりも名前だな」
「ああ。女なら、知子なんてのはどうだろう?」
「捻りがないな、お前は。言うに事欠いてともこ、か」
「じゃあどうしよっか」
「そうだな……」

智代が腹に手をやった。目が優しかった。

「うん、巴なんてどうだろう?女らしいとは思わないか?
もう一人も女の子だったら、知美はどうかな?」
「何だかお前みたいに綺麗で頭のいい子になりそうだが、俺に似ちまったら悲惨だな、おい」

すると智代は静かに頭を振った。

「そんなことはない。お前に似たら顔立ちの整った優しい子になるだろう」
「……男の子だったら?」
「……恥ずかしがらずに聞いてくれるか?」
「うん」
「朋幸、にしようと思うんだ」
「ともゆき、朋幸っておい、それ、俺と親父の名前を合わせたのだろ」
「いいだろう、家族らしくて。もう一人は、そうだな、智文だ」
「それ、お前と鷹文の名前か」
「……だめか、やっぱり」
「いや、いいと思うぞ。うん」

急に智代の顔が輝いた。

「本当かっ」
「ああ。やっぱお前の方が名前つけるのはうまそうだな」

俺と、智代と、子供二人。
いつか四人で桜を見に行ったり、雪を眺めたりする時があるんだろうか。
何だかそれは、正に絵にかいたような幸せのような気がした。





「しっかしこれからが大変なのよねぇ。朋也、あんたちゃんと守ってあげなさいよ?」

杏がため息交じりに言った。杏は去年に春原との息子、翔を無事生んだから、
その時からのアドバイスを言いに来てくれたのだった。

「そりゃあ、もちろんさ」
「どうだかね。あんたら男には産みの苦しみってのが解らないからね」
「まぁでも僕はにぃちゃんを信じてるからさ」

義弟の鷹文が笑った。こんなにお客が一気に見舞いにきて、
智代は大丈夫なんだろうかと危惧していたが、
当の本人は友人や家族に会える喜びの方が勝っているようだった。

「しかしやっぱり智代ちゃんも女のkげはあぶぁ」

春原は俺と杏と、そして遊びに来ていた鷹文から一斉にパンチをくらって沈黙した。
智代ももし病室で寝ていなかったら参加していただろう。

「会いに来たと思ったら随分な挨拶だな、春原」

冷やかな口調の智代。

「というか杏、自分の夫ぐらいちゃんと教育しろ」
「無茶言わないでよ、こいつやっと人語理解し始めたんだから」
「僕は人外生物ですかっ!」
「「「何を今更」」」
「ひどっ!」

いろいろと考えた結果、智代は入院することになった。
いくら本人が平気だと言っても、俺は智代の体への負担をできるだけ減らしておきたかった。
俺たちはもう若くはないのだし、それに加えて生まれてくる子供が双子という要素からして、
安全策に走るのがベストだと思った。

「でもまあみんなにぃちゃんほど扱いやすいわけじゃないしね」
「鷹文、何を言ってるんだ。それじゃああたかも私が朋也を尻に敷いているようじゃないか」
「……」
「……」
「何だ、どうしたんだ杏も鷹文も黙ってしまって……あと何で朋也がそこで赤くなるんだ?」
「だって、ねえ?鷹文君」
「まさか自覚がなかったなんてさ。本当に自分の姉なんだろうか」
「あら〜鷹文君、私と気が合いそうね。あとでデートでもしよっか?」
「って杏っ?!僕のことはどうなるんですかねぇえ!!」
「え、まだいたの?」
「ひどいっす!僕は妻にまで見放されたっす!」

喧騒が部屋を支配する中、俺はそっと智代の手を握った。
智代ははっとした顔をしたが、すぐに微笑んで優しく握り返してくれた。

「平和だな」
「ああ。平和だ」

目の前では鷹文が杏とその足にしがみついて泣くヘタレ星人を
椋が病室からつまみ出すのを唖然としてみていた。
やっぱりあの二人は姉妹なんだな、と実感した。

「ところでにぃちゃんは仕事大丈夫なの?」
「あ、ああ、もうそろそろ昼休みも終わりだな」
「そうか。朋也」
「うん」

俺は智代の腹に手を乗せて優しくさすった。

「じゃあ父さん仕事に行ってくるからな。母さんにあまり迷惑をかけるんじゃないぞ」
「そうだ。私をあまり蹴るんじゃない」
「何だかねぇ……」

肩をすくめる鷹文だった。





急に忙しくなった。
俺はもう、共働きの亭主として智代に甘えることはできなくなった。
生まれてくる子供達の親として、そして育児に追われることになる智代の夫として、
俺が家族を支えなくてはならなくなった。
だから、俺は決めた。

「これは、前と同じ、じゃないな?」

俺がその決断を話した時、智代の眼が悲しげに瞬いた。

「違う、と俺は思う」

俺はもう、智代にあまり会えなくなる。
それは俺がこれから残業と週末出勤の嵐に身を投じることになるからだ。
幸せが金で買えるとは思っていない。
でも、できることなら子供たちには金銭的にあまり苦労は掛けさせたくないとは思っているし、
彼らが望むのなら大学卒業まで面倒を見てやりたい。だから、俺はそう決めた。

しかし、これはまた逃げているんじゃないだろうか、という声も聞こえた。
智代が自分を一番必要としている時に、お前は何をやるつもりなんだ?
これから辛く痛い日々を過ごす妻を置いていくのか?
お前は苦しんでいる妻を支えるだけの勇気がないだけなんじゃないか?

違う。
逃げているんじゃない。
智代が俺を必要としているのもわかるし、俺も智代の傍にいたい。
でも、それだけじゃああの時と同じなんだ。
ここで簡単な答えにしがみついていると、また二人で堕ちて行ってしまう。
こういう話は考えたくないが、ここで二人とも休暇を取ってしまったら、
誰が入院費を出す?誰が出産後の出費を賄う?

「だから、これはあの時とは違うんだ」

あの時、俺は二人で堕ちていくのを良しとはせずに答えを探した。
そして一番簡単な答え - 智代と別れること - を選んだ。
一番辛くて、一番正しい答えを見ようともせずに。
自分で自分を変えようとも思わずに。

「俺とお前は一緒だ。離れていても、ずっと一緒だ。
今の二人が辛くても、それは四人で笑うための布石なんだ」
「……強いな、朋也は」
「俺が強くなれたのは、お前がいたからだ。
だから、お前だって強いんだ。苦しくても、お前は絶対に耐えれる。
そうだろ、岡崎智代?」

敢えて苗字も呼ぶ。そうすることで、二人の絆を示せると思ったから。

「そうだな。うんっ、その通りだっ」

妻は頷いてくれた。





「はぁぁ……」

目をこすりながら、廊下のソファーの上で缶コーヒーを煽る。
恐らくとんでもない顔になっているんだろう。顎をさすると、無精鬚が手を刺した。

「こんな顔で智代に会いに行ったら、愛想尽かされて離婚にならねえかな……」

乾いた笑いが漏れる。でも、なぜか今の言葉で元気が出た。
そうだ。俺、今何をしてるんだっけ?仕事。金を稼いでるんだ。
何でこんなことしてるんだっけ?ああ、そっか。
ともよ。こどもたち。かぞく。
じゃあ、これ以上言葉なんていらないよな。

「ああ。要らないなっと」

ベンチから立ってデスクに戻る。
そしてスクリーンを見つめると、キーボードを叩き始めた。
最初は慣れていなかったパソコンだが、
鷹文にブラインドタッチをみっちり叩き込まれたおかげで今は結構楽だ。

「あ、岡崎係長、遅くまでお疲れです」

新入りの女の子が湯呑茶碗を差し出しながら笑った。

「お、ありがとさん」
「係長、ここんとこずっと残業ですよね。
家に帰らないと、奥さんへそ曲げて実家帰っちゃうかもしれませんよ?」
「……俺のかみさん、今、家にいないんだ……」
「え……」

小さく笑った俺の表情を、新入りが誤解してとる。ははぁ、なるほど。そう見えるか。
俺は少しいたずらをしたくなった。

「大事な人ができたって言って、出てっちまった」

まあ大事だもんな、俺たちの子供。

「す、すみません。私、そんなの知らずに……」
「いいんだよ。もう……二ヶ月前の話だ」

二ヶ月前になると、いわゆる妊娠後期に入ったので智代が入院した。

「奥さんとは、話は……」
「何度もしてるけど……もうどうしようもないな」

どうしようもなく愛し愛されております、はい。
その時、机の上の電話が鳴った。

「はい、ブリッツ電気……え?あ、はい、繋いでください……もしもし、親父?」
『朋也君、すぐに来るんだ!』
「どうしたんだ!病院か?」
『智代さんが、陣痛を感じたんだ。もうそろそろ産まれる!』





その時いたのは、智代のお母さんだった。ここのところずっと智代の傍にいてくれていたという。

「最近、時々痛みを訴えていたんだけれども、
今夜はもう十分おきに痛がっていたから、これはまずいと思ったんです」

分娩室の外で、俺は親父と義父母と合流した。
扉の向こうからは、ひっきりなしに智代の声が聞こえる。
聞く度に、俺のどこかを切り裂かれるような痛みを感じた。

「いつ、始まったんです?」
「分娩室に連れて行かれたのが、二時間前……七時ごろです」
「いつまで……いつまで続くんですか?」

義母は首を振った。何でも、こういうのは個人差があって、
最初の出産だと大体十二時間ほどかかるんだそうだが、
智代の場合高年齢の上に双子というケースだから具体的な時間はわからないのだそうだ。
あいつは、いつまで苦しまなきゃいけないんだろうか。

「朋也君、少し休んだらどうだ」

親父が労わりの声をかけてくれた。

「そんな……あいつ、今闘ってるのに、俺、あいつ、守るって言ったのに……」

「岡崎朋也君」

急に改まった口調で、義父が目の前に立った。

「その心意気やよし。しかし、これは持久戦になるんだ。明日の朝まで、ずっと続くだろう。
その時まで、君は闘っていられるか?」
「俺は……」
「休めるときに休んでおきたまえ。ここのところ、まともに寝てもいないんだろう?」

義父が俺の両肩を押す。声を上げる間もなく、俺は廊下のソファーに沈み込んでしまった。

「ほら見たまえ。これでは守れるものも守れない。
今は私たちが頑張るから、君はここで休んでいなさい」

俺は頷くしかなかった。





どれくらい寝ていただろうか。ふと気がついたら、廊下の明かりが消えていた。

「朋也さん、大丈夫ですか」

見ると、義母が俺の隣に座っていた。

「あ、どうも」
「お疲れでしょう。もう少し休まれてはいかがですか」
「いえ……お義母さんこそ、大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。わが子を見守るのが、親の務めですから」

俺はまた扉を見た。声はもう聞こえないが、あそこで智代はまだ頑張っているんだろう。

「まだ……なんですよね」
「まだですね。まだ準備をしているところです。あの子は、いつもなら手際いいんですけどね」

ふふふ、と笑う仕草が智代そっくりだった。

「でも変なところで不器用だから、もしかすると手間取っているのかもしれません」
「あいつ、正攻法しかしませんからね。楽な道があっても、絶対に正しい道しか行かない」

だから俺はあいつに魅かれたんだ。あいつのその姿勢で、変わっていったんだ。

「朋也さん、実は、あなたには話しておきたいことがあるんです」

急に改まって義母が俺の方を向く。

「実は難病にかかっている……とかじゃないですよね」
「いいえ。それはあなたもよくご存じでしょう」
「何だかこういう話でよく出るんですよ。医者にも分からない難病とかって」
「私が話しておきたいことは、智代さんのことではなくて、あなたのことです」

俺のこと?

「ずっと……謝っておきたかったの」
「謝る?」
「ええ」

義母が視線を逸らした。

「私はあなたという人が今の今まで解らなかったんです。
主人も智代さんも鷹文さんも、あなたのことは認めていましたが、
私だけは今になるまで信用できなかったんです」

馬鹿みたい、と彼女は呟いた。

「私たちの昔のことは……ご存じよね?」
「……ええ」
「あの頃は私も主人も、何も信じることができなかったんです。
お互いも、子供達も。何も。もし鷹文さんが……」

拳をぎゅっと握った。

「お義母さん」
「ええ……そうでしたね。でしたから、もうたくさん、と思ったんです。
もうこんな悲しいことは終わりにしようって。
だからせめて智代さんと鷹文さんの縁談だけはうまくいくようにしよう、と主人と話したんです。
そうしたら」

俺は苦笑するしかなかった。
進学校に編入し、生徒会長にもなった娘に彼氏ができたらしい。
しかもその男は遅刻の常習犯で、授業もろくに出ていないようだ。
どうも進学するつもりはなく、就職するつもりらしい。
今でもよく思う。よくもまああんなデコボコンビができたな、と。

「失礼な話ですが、初めは血迷ったか、と思いました。
でも、あの子が本気だと解った瞬間、私たちも心配になりました」
「わかりますよ。実際、あいつがいなけりゃ」

いなけりゃどうしていたかな。
地元で配線工をずっと続けていたかな。
ただ単に生きるために。
希望も何もなく。
それともそれすら辞めていたかもしれない。

「でも鷹文さんは知っていた。智代さんも無論知っていた。
そして、結局は主人までもが『朋也君はそう悪くはないぞ?』と言い出す始末。
もう、みんなして私をいじめて、と思いました」

小さく笑う。

「ごめんなさいね。私、今日あなたと出会うまで、
本当の意味であなた達の結婚を祝福していなかったんです。
ただただ、もう済ませちゃったんだからしょうがない、と。
本当は知っていたはずなんですよ。
あなたが通信制の大学に通い始めたと聞いて、
あなたがあの子のためなら何でもしてくれる人だと」
「俺は……」

それ以上のものをもらっているから。
自分を変えるだけの勇気と理由を、あいつからもらっているから。

「今夜あなたがあの子のそばにいないと聞いて、私、少し後悔してたんです。
何でこんな大事な時にいないんだろうって。でも、あなたを一目見て解りました」
「俺を見て?」
「はい。正確に言うと、その無精ひげと隈とやつれた頬を見て解りました」

あなたもあの子と一緒に闘っていたんだな、って。

「……」
「だからね、今ならはっきり言えるんです。
あの子を任せられるのは、あなたしかいない。
あの子を幸せに導けるのは、あなたしかいない。
そうです。岡崎朋也さん。あなただけです」

義母は微笑んでくれた。

「智代さんを、よろしくお願いします」



その後は、ずっと起きていた。
断続的に智代の疲れた悲鳴が聞こえた。
聞こえるたびに歯を食いしばり、か細く祈るように呟いた。
がんばれ。もう少しだ。
しかし、それはずっとずっと、残酷なほど続いた。心が折れるほどの痛みが続いた。
空が白み始める頃には、俺を支えるものが何なのか、俺自身わからなくなっていた。
それぐらい全部壊れ、全部傷み、全部摩耗していた。



夢を見た。

窓の外の空が紺色に染まっていた。朝陽まであと少し。そして

俺の隣に誰かいた。

―――なあ朋也

懐かしい声。あれ、だれだっけ。

―――お前は私といて、幸せだったか?

しあわせ?わからない。もうなにもわからない。
でも、このこえをきいていると、こころがやすらぐ

―――私はお前に会えて、幸せだったぞ

きみも、こころがやすらいだの?あれ、なんでだろう。それをきいて、ぼくもうれしい。

―――だからな、朋也。私は何があろうと、後悔なんかしていないからな?

こうかい?わるいこと?うん、ぼくも、しない

―――そうか、安心したぞ

え?どういうこと?

―――じゃあな



「智代っ!」

自分の声で目が覚めた。答えるかのように、智代の悲鳴が聞こえた。

「智代っ?智代っ!おい、智代っ!」

必死になって、戸を叩く。すると、中から医者の声が聞こえた。

「岡崎さん、御主人が応援してますよ!え……」

しばしの沈黙の後、医者が再度言った。

「岡崎さん…朋也さん!奥さんからの伝言です!『信じていてくれ』とのことです!」

その一言で、さっきの不安も闇も消えて行ってしまった。
ああそうだ。しっかりしろ、朋也。お前が信じないでどうする?
だって、智代は、岡崎智代は

世界最高の妻じゃないか。

「岡崎さん!岡崎さん!よくやりました!あと少しです!」

不意に歓声が扉の向こうから聞こえた。
慌ただしい足音とともに、一人の看護婦が部屋から出てきた。

「あの、今のは?」

「え、ああ、今のですか?奥さまが破水なされました。あと一息ですよ、岡崎さん」

何でも分娩には三段階あって、第一段階で子宮が広がり、子供を産む準備を整える。
第二段階で実際に子供を産み出し、第三段階ではへその緒やら胎盤やらが出るだけだそうだ。
そして破水は、第一段階が終わり、第二段階に移行したことを告げる。

「朋也君、どうなってるんだ!」

親父が廊下を走ってやってきた。義父母もすぐ後に続いた。

「今、破水したそうです。今から、子供が、産まれます」

一言ひとこと区切らなければ実感がわかなかった。

「確か第二段階は一時間から二時間しかかからないはずだ。
よし、あと一踏ん張りだぞ、智代っ」

義父が拳を握り締めた。



いつの間に眠ってしまったんだろうか。
夢を見ていた。
誰もいない廊下。俺は分娩室の扉の前に立っていた。
すると、扉が急に開いて、俺に中に入るよう勧めた。
その部屋の中で、智代がベッドの上で苦しんでいた。俺は智代の傍に寄った。

「智代」

顔が蒼い。表情は苦しげなのに、喘ぎながらも何か訴えているのに、何も聞こえない。

「智代っ!」

思わず手を握った。

「朋也……か」

不意に智代の声が聞こえるようになった。手は驚くほど冷たかった。

「そうだ朋也だっ!お前の傍にいるぞ!お前の柔らかい手を握っているぞ!」
「朋也が……痛い……傍にいるのか……あああああ!うぅあっはぁあああ!……朋也」
「傍にいるぞ!ずっとずっと、傍にいるぞ!智代っ!」

指の先が、だんだん温かさを取り戻していった。そこから徐々に青白かった肌に色が戻っていく。

「朋也っああ朋也っ!大好きな、朋也」
「智代っ!愛してるぞ智代っ!」
「…やくん!朋也君!朋也君!」

気がつくと、親父が俺の肩を揺さぶっていた。

「親父……智代はっ!」

親父の頬から一筋の涙が落ちた。洟をすすりながら、親父は笑った。
急いで開かれた分娩室の扉を通る。



俺はその光景を一生忘れることはないだろう。



朝陽が窓から入っていた。世界が白く包まれている中、
俺は寝台で荒い呼吸を整えながら起きようとしている女性を見ていた。
神なんて信じていない。教会なんて、結婚式の時に一回お世話になっただけだった。
それでも、俺はその時「聖母」という言葉ほど、智代にふさわしい言葉はないと思った。
それほど彼女は気高く、美しく、優しかった。
傍によって、手に触れる。ハッとするほど青い瞳が、俺を見つめる。

「智代……」
「朋也……一緒に、いてくれたんだな」
「ああ……ずっと、傍にいた、と思う」
「手……握ってくれたんだな」
「握ってたかな……あまりよくわからない」
「実は、私もだ。でも、お前の声は、確かに届いていたぞ」

我慢できなくなって、俺は智代の唇を奪った。
滑らかな髪に手を添えて、愛おしげに頭を抱いて、
貪るように接吻した。熱い何かが、俺と智代の顔を濡らした。

「朋也、聞こえるか?元気な泣き声だな……」
「ああ、そうだな」

その時になって、ようやく俺は辺りの喧騒に気がついた。
はっきり言ってやかましいほどの泣き声。それは、力強い新たな生命の兆しだった。

「朋也、見てやってくれ。私たちの子供だ。朋幸と、巴だ」

そして俺は見た。俺たちの双子の赤ん坊を。
真っ赤な、猿の子という形容句があながち外れではない、皺だらけの、
しかし愛おしい息子と娘を。

「ああ、可愛いな」

智代の髪を撫でながら、俺は笑った。
泣きながら笑えるなんて、我ながら器用な奴だ、と思った。

「なあ朋也」
「ん?」

不意に智代が俺の頬に手を伸ばした。

じょり

「無精ひげも、似合ってるぞ?」












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ところで家族が全員「とも」だったら、いろいろとややこしくなるんじゃないかなぁ……
あ、でもともぴょんはやっぱり智代専用で。

毎度ながら完読お疲れ様です。クロイ=レイです。
いやもういろんな妄想入ってます今回の話。
何だか周りの皆様に「出産がそんなにうまくいくかいボケ」となじられそうです。
朋也と智代の結婚までの日々や、親子の日々を描いたSSはあっても、
出産自体はないんじゃねえかと思い書いてみましたが、いかがでせうか?
捕捉しますと、どうもあの二人からして子供を支えるだけの経済力持たないと
産まないんじゃないかって気がして、
で気付いたら朋智コンビは二十代ではなくなっていたと(ォィ。
でもまあ智代の性格からして望まれざる子供なんて絶対にないようにするだろうから、
こんなのもありかな、と思ってもらえればと思います。

最後に爆弾発言で終わらせたいと思います。

春原翔って、父親似なのに人語を理解するそうだぞ?


【管理人のコメント】

いや、杏の子でもあるから問題ないと見る(上の爆弾発言より

しかし、今回は出産シーンですか。
たしかにあまりそういうSSは少ない気がします。
渚は本編で物凄い絡んでますが…

朋也の序盤の狼狽っぷりがwww落ち着け、ともぴょn(瞬撃

今回、朋也と智代が結構な歳で出産となりましたが…
クロイさんのいうとおり、二人が子供を持つのは遅くなる可能性が高いですが、
個人的には、計算外で出来ちゃう可能性も捨てれませんw
何せ智代さん、意外にうっかり属性持ってますからねw(智代アフターとか見てると

しかし全員『とも』
『とも』と聞くと、あの子を思い出しますね…

全然関係ないけど、
ともトリオと聞いて、
ダグドリオと変換されたのはうちだけでいいです…





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